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SAPIENS TALK Vol.8 田中 知之(FPM)(1/6)「田中知之のルーツ」

ブランディングカンパニー「クロマニヨン」が主催するトークライブ「SAPIENS TALK」。時代を生き抜く「SAPIENS(知性ある者)」たちに、直接問いかけるリアルなトークライブ。コロナ禍でますます世界を狭めてしまいがちな今こそ、ダイレクトな言葉を通して多くの人に刺激ときっかけを発信したいと思っています。

第8回目は日本を代表するDJにして音楽プロデューサーであるFPMこと田中知之さんをお呼びし、「人々の心を掴む普遍の法則」について迫りました。

 

ゲスト:田中知之(FPM)
モデレーター:小柳俊郎(株式会社クロマニヨン 代表取締役/CEO)

小柳:今日のゲストはあの「オリンピック」開会式・閉会式、そして「パラリンピック」の音楽監督を務められたFPMこと田中知之さんです!

 

田中:よろしくお願いします。

小柳:ニヤニヤされてますけど…

田中:いや、先ほど流した「オリンピック」の映像ですが、僕は毎回冷静に見れなくて(汗)

小柳:そういえば、開会式の最初の音楽は「30時間」で作られたと聞いたのですが。

田中:そうです。アニメーションやスタジアムに人が出てきて行うフィールドパフォーマンスがあって。先ほどの映像がその後に出るカウントダウンなんですけど、そこまでの全部の尺を、訳あって急遽30時間で作りました。。

小柳:無茶ぶりですね(笑)後ほど詳しく聞かせてください。今日田中さんに来ていただいたんですが、僕はイベントでお会いしたんですけど、近い話だと僕の50歳の誕生日のお祝いをして頂いたりして。

田中:はい。あれは六本木でしたね。あと渋谷駅の直上に屋上展望台施設があるんですけど、その1つ下のフロアに「パラダイスラウンジ」っていう以前サピエンストークに出演されていた中村貞裕さんのトランジットがプロデュースするお店があって。

小柳:夜景が素敵ですよね。

田中:はい。物凄い夜景なんですよ!そこの音楽を僕が選曲していて、オープニングのパーティーに来ていただきましたね。

小柳:あと佐賀の武雄のサウナにDJブースを持ち込んで一緒に風呂に入りましたね。

田中:サウナランキング1位の!僕、そこでDJやらせてもらいましたね。

小柳:はい。武雄の「らかんの湯」ですね。こんな感じで2019年まで平和で、浮かれてましたが、そこからコロナの時代になり、その次にお会いしたのが2022年夏の「ドリームダスク」でした。

 

田中:懐かしいですね!

 

小柳:音楽は大好きですけど全然DJのカルチャーで育ってない僕が、田中さんに来ていただきたいなと思ったのは「すごく人間臭いな」と。音楽をたくさん作られていて、これだけ世界的なDJなのにこういうところに来ていただける、その人間臭さみたいな部分を共有できたらいいなと思っております。

田中:よろしくお願いします。

 

田中知之のルーツ

小柳:では早速、田中さんのルーツについてお尋ねしていきたいんですが「京都生まれ、オカルト育ち」とありまして・・・笑。

田中:はい。僕は京都御所があるさらに北側の地域に住んでいて、寺之内通りという道にあるんですが、豊臣秀吉がその昔お寺をこの辺りに集めたんですよ。だから寺之内通り。なので僕の実家では、大晦日に除夜の鐘が3ヶ所のお寺から聞こえるんです。

小柳:良いところですね!

田中:はい。ただ変わったお寺ばかりなんですよ。

僕の家の前にある「宝鏡寺」というお寺は「人形寺」と言われる人形を祀っているお寺なんですけど。そこには前の持ち主を思って夜中歩き回る人形がいらっしゃいます(笑)。今の上皇さん(当時の皇太子さん)がいらっしゃったことがあって、ちょっと自慢なんですけど外にいらっしゃる上皇さんを僕は格子戸越しに、自宅の中から拝見したことがあります。

小柳:京都っぽいですね〜!

田中:自分の家の裏には「報恩寺」というお寺があって。京都の西陣という織物の町なんですけど、そこには諍いがあった後に身投げをした織子さんの祟りがあると言われる井戸があります。そのお寺には夜になったら鳴く虎の絵があるとも言われています。その周りにも色々あるんですけど話し出したらきりがなくて、1時間半終わっちゃうかもしれません(笑)僕、島田秀平さんのYoutubeにオカルト話だけで3話も出ているんですよ。

小柳:DJの話じゃなくてですか?

田中:はい。京都のオカルトの話を延々とやっているので、ぜひYoutubeで観ていただけたらと思います。

小柳:「東京生まれ、ヒップホップ育ち」とは全然違いますね!「悪そうなやつは大体友達」と言いますけど、「悪そうな人」じゃなく「怖そうな人」ですね(笑)。

田中:「怖そう」っていうのも、不気味な、青白い顔をした「怖そうな人」って感じですね(笑)。本当に自分の奥底にオカルトがあるなっていうのは思うんですよね。僕、天気運がめちゃくちゃいいんですよ。自分のイベントは大体晴れます。でもタクシー運がめちゃくちゃ悪いんです。今日もここに来るときに、ホテルの横からタクシーを拾いたくて交差点までの数メートルの間に空車のタクシーが5台ぐらい通ったんですけど、そこの交差点に辿り着いた瞬間に全然来なくなって。数秒の間に5台通ったのに、本当にその後10分ぐらい来ませんでした。でもこれが毎回なんですよ。

小柳:じ・・若干怖いですね。

田中:怖いんですけど、本当にそうなんです。だから、僕はそういうことを信じているんですが、これが僕のクリエイティブの原点で。曲を作る時も結構オカルト的なこととか、霊的なこととか、人知の及ばないところに委ねていることが多いかもしれないです。

小柳:面白い!だから「オカルト育ち」って思いっきり言ってるんですね。

田中:ビジネスの参考には一切ならない話ですけど(笑)。

 

ディスコとDJ

 小柳:田中さんは学生時代まで京都にいらっしゃったんですよね。

田中:いわゆるクラブ文化と言われる時代の前ですが、僕が高校3年生の時は高校に行きながら京都の「マハラジャ」というディスコでアルバイトをしていました。

皿洗いのアルバイトだったのですが、初めてDJを見た時、彼らが何をやっているか分からなくて。「ヘッドホンを耳に当てながら何かやっている人がいるなぁ」ぐらいの感じで(笑)。

小柳:えぇ、そんな感じだったんですか!

田中:当時、僕はバリバリのバンドマンで、プロのミュージシャンになろうと思ってベースをやっていたんですけど。僕はディスコで出会って初めて「DJ」という職業があるんだなって知りましたね。

小柳:そして学生時代にバンドをバリバリやりながら、当時出会ったDJになられるかと思いきや、大学卒業後はアパレル会社のサラリーマンになられたんですよね。

田中:当時僕が京都でやってたバンドは、あの「宝島社」がやっていた「キャプテン」というインディーズのレコードレーベルでデビューが決まっていたんです。「マーガリン・ストライクス・バック」という名前だったんですけど、リリースされる予定の音源を納品したところで、なんとその「キャプテン」というレーベルが活動を休止してしまって。

小柳:え〜!

田中:結局デビューし損なってしまったわけなんですが、そこまで僕は音楽家になると信じて疑ってなかったから「さてどうしたものか」と思って。で、僕が音楽の次に好きなのは洋服だったので、急遽就職活動をしていろんなアパレル企業を受けました。当時はバブルの絶頂期だったので就職はすごく楽で、1人内定を5〜6個貰っているのが普通というような時代だったんです。僕も受けたところから全て内定を頂きましたね。

僕こう見えて法学部だったんですが、アパレル会社で働くなら営業には就きたくなくて、お願いして企画部で採用してもらったんですけど、入ってからはめちゃくちゃ苦労しましたね。周りは「バンタン」とか「文化服装学園」卒業の方なので。ミシンの研修とかあるんですけど、四大でミュージシャンを目指してたやつがミシンなんて踏めるわけなくて(笑)。

小柳:それはそうですよね(笑)。

田中:そのアパレルメーカーは当時、かのイタリアの有名ブランド「○○○ー○(自粛)」さんのディフュージョンラインの日本国内企画品とかやっていたんですね。だから、僕が工場の研修でめちゃくちゃ下手くに縫ったそこのブランドのシャツをお召しになっている方がいらっしゃるんですよ。恐ろしいでしょ(笑)。

 

アパレル業界から編集者の道へ

小柳:そのアパレル企画部でMD(マーチャンダイザー)みたいな仕事を4年半ぐらいされたと。そこからですよ!ここで遂にミュージシャン・DJの道に進むかと思いきや、次は雑誌「SAVVY」の編集者になられたんですか?

田中:当時勤めていたアパレル企業に女性向けファッション情報誌の「SAVVY」から取材が来て。それぞれの会社の人たちがどんなところでご飯食べたりしているかを紹介するページの取材だったんですけど。「田中食べるの好きだろ」って言われて、会社代表で同僚と一緒に取材に行ったんです。そこでベラベラ喋っていたら、なぜか「SAVVY」の編集部長さんから「君は雑誌の編集者に向いているから、うちの編集部に来なさい」って言われて。それで行くことになりました。

小柳:なんですか、それ(笑)!

田中:僕は自分で何かを目指してやるっていうことをあんまりやっていなくて、この時も流されるような感じでした。当時勤めていた会社に「すいません。取材は受けてきたんですけど、うちの出版社に働きに来いって言われたから行っていいですか?」って正直に話したら「しょうがないなぁ」って円満退社をして。 そして「京阪神エルマガジン社」の編集部に正社員で入りました。

小柳:めちゃくちゃですね!では、エディターさんということですよね!

田中:「エディター」と言ったらかっこいいですけど、この時文章なんて書いたことなかったですからね。今でこそ皆さんはメールで文章を打ったり、書いたりしていますけど。当時はメールもなかったので大学の論文試験以来、文章は一切書いていませんでした。

小柳:今も雑誌「SAVVY」は刊行され続けていますよね。街のネタを拾って記事にするということをされていたんですか。

田中:そうですね。OLさん向けのファッション情報誌なんですけど、当時僕が入った頃は同じジャンルだと、うちが唯一の在阪の出版社だったんですよ。そのあと「マガジンハウス」が大阪にも支社を作って、「Hanako」の関西版「Hanako WEST」という雑誌を出したりしましたが。

当時はまだバブルの余韻が残る時代だった。あくまで噂ですが、東京資本の雑誌の関西方面の取材班は、大阪からタクシー飛ばして神戸まで取材に行き、取材中もタクシーを待たせておいて、そのままそのタクシーで大阪に戻っていたと聞いたことがある。でも、当然、私が居る関西の小さな出版社にはお金がないから、取材は電車で。しかも事前に行うロケハンは「全部自腹でやれ」って言われていました。でも、そのお陰でお店のベーシックな情報のゲットの仕方とか、お店の良し悪しを見極める術みたいなものを学べたのかなって思いますね。

小柳:それは自腹だったからこそかもしれませんね。この期間もDJをされていたんですか。

田中:少しやっていましたね。アパレル会社に勤めていた間も結局給料は全部レコードに使っていましたから(笑)。

 

 

>>その2 「異例のアルバム内デビュー」へつづく

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