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SAPIENS TALK Vol.8 田中 知之(FPM)(2/6)「異例のアルバム内デビュー」

異例のアルバム内デビュー

小柳:ここから田中さんの第2章のお仕事の話に移っていきますけど、ここでやっとデビューされるんですよね!

田中:当時、渋谷系アーティストと言われる「ピチカート・ファイヴ」の小西康陽さんと知り合うことで色々と開けていきました。小西さんに「オリジナルの作品を作った方が良いよ」と勧められて作ったデモ曲を渡したら、「これ、次のピチカート・ファイヴのアルバムに入れたい」と。つまり新人アーティストを自分達のアルバムの中でメジャー・デビューさせようとひらめいたんです。そのアイデアがすごいですよね!

ジャケットのデザインは先日惜しくもお亡くなりになられた信藤三雄さん。「おしゃれ」っていう言葉って、あまり軽々しく言うべきじゃないかもしれないですけど、その「おしゃれ」が「音楽」と並走していて、渋谷という街で生まれたデザインや音楽が世界を席巻していくような、そんなタイミングだったんですよね。

小柳:なるほど!

田中:一足先に「ピチカート・ファイヴ」は世界に出て行ってたんですけど、確か1993年終わりくらいにに僕は大阪で彼らと知り合って、翌年に小西さんと一緒にコンピレーションCDの選曲をやらせてもらったりもしました。1995年1月に神戸の震災があるんですが、震災の瞬間も朝まで徹夜してデモテープを作っていました。その時に作っていた楽曲がその秋に出た「ピチカート・ファイヴ」のアルバムに収録されたんです。「ピチカート・ファイヴ」のアルバムなのに一曲だけファンタスティック・プラスチック・マシーンの曲が。

小柳:最初は京都の「クラブメトロ」で、映画のサウンドトラックばかりかけるDJイベントを始めたんですよね。

田中:1992年の7月19日に初めてやったんですけど、それが思いの外ウケたんです。今でこそクラブって毎日オーガナイザーが違うんですけど、当時って東京も京都も、結局帯でやるんですよ。火曜日はこの人、水曜日はこの人って決まっていて。僕は木曜日担当だったんです。その時一緒にやっていたのが「グルーヴィジョンズ」という今もすごく人気のあるデザイン集団の​​伊藤弘さんと僕の友達で。映画のサウンドトラックを中心としたDJのイベントを、毎週木曜日に3年間ぐらいはやっていましたね。

小柳:この時に「テイ・トウワ」さんや「ピチカート・ファイヴ」の小西さんを呼ばれていたんですね。

田中:はい。僕らは「サウンド・イムポッシブル」というDJチームをやっていたんですけど、先に世界に出ていた彼らが世界のいろんな街で共演したアーティストに「京都にこんな奴らがいるから」って僕らのことを紹介してくれたんです。お陰で世界中の街のDJから僕に連絡がくるようになりました。今だったらメールやSNSで連絡が取れるんですけど、当時はファックスだったんですよ。英語で「ロンドンの●●だけど、小西からお前のこと聞いて、今度京都に行くからパーティーでDJやらせてくれ」って書いてあって。でも感熱紙のファックスって、半年ぐらいしたら字が消えるんですよね。

小柳:消えますね!

田中:証拠が残らないんですよ(笑)。でも、そういうやり取りだからこそ逆に濃密だなと思って。今だとSNSでは全く会ったことがない人でもメッセージを送れて。大体スルーされるかもしれないけど、たまにそれが繋がったりするじゃないですか。だからいろんなことを間違っちゃいますよね。僕にも全く知らない人から、まるで友達からみたいな文面のメッセージがたまに来るんですよ。

「今度札幌に行くんですけど、美味しいお店2~3軒教えてください」って、知らない人からですよ(笑)。

小柳:知らんがな!と! 時代ですね〜(笑)

 

田中:ただ「デモを作ったので聴いてください」という連絡もあります。そういうのは聴いて、良かったら返事するけど、良くなかったら聴かなかったことにしてますけどね。

小柳:そういうのは分かりますけど…!「美味しいお店を教えてくれ」っていう連絡は「僕は食べログじゃない」って話ですよね(笑)。って話ですよね(笑)。

田中:本当ですよ(笑)。

 

小柳:話を戻しますけど「FPM」という名前は皆さんもご存知の通り「ファンタスティック・プラスティック・マシーン」の略称なんですが、なんでこの名前になったんですか。

田中:これは「ファンタスティック・プラスティック・マシーン」というサーフィン映画がありまして。そのサウンドトラック盤を持っていて「こんな名前のバンドがあったらいいよね」って小西康陽さんが仰って。「じゃあ僕、その名前で音楽作ります」って言って使い始めたんです。

そんな軽い気持ちで名乗り出したんですが、再来年で30周年になるんです。30年も使う名前だったらもうちょっとじっくり考えたら良かったですね(笑)。

あまりにも長いし、噛んでしまうから、途中から「FPM」っていう風に短くして皆さんにも呼んでもらってます。僕らが大好きな「イエロー・マジック・オーケストラ」も「YMO」と呼ばれていたのでそれに憧れたというのもあります。

GAPと同時多発テロ

小柳:ここからどんどん人生が加速していかれるわけなんですが「GAPと同時多発テロ」のお話について聞かせていただけますか。

田中:アメリカのワールドトレードセンターの最上階から2つ目のフロアにある「Windows on the  World」というレストランが毎週火曜日にクラブになるんですけど、ニューヨーク在住の元パイロットだったルシアンというDJがここでパーティーを主催されていたんです。僕も何度もDJをやらせて頂いたんですけど、2001年の9月11日にDJやってよって言われたので「分かった、やる」と返事をしていたんですよね。ただちょうど日にちが決まった直後に「GAP」の広告の世界キャンペーンでミュージシャンやDJをモデルにするから「出てくれ」と言われて。当時僕は日本ではそうでもなかったんですけど、アメリカではそこそこ有名だったんですよ(笑)本当に僕、生まれて初めてこの時しか乗ったことないんですけど、ファーストクラスでニューヨークまで行かせてもらって。「JFK(ジョン・F・ケネディ国際空港)に着いたら、僕専用のリムジンが待っていたんです。

でも行くところが中古レコード屋ぐらいしか思い浮かばなかったから、ニューヨークのマンハッタン中の中古レコード屋を全部リムジンで回りました(笑)。

小柳:めっちゃ、かっこいい!

田中:話を戻すとそのGAPの広告は「マリオ・ソレンティ」という当時の「ケイト・モス」の彼氏でもあって1番バリバリだったカメラマンが撮ってくれたんですけど。その撮影が9月4日になったから、パーティーのDJもその1週間前の火曜日にやらせてくれって主催のルシアンに連絡をして。同時多発テロが起こったのは朝で僕がDJをやる時間は夜中だったからテロに遭遇した確率は低いんですが…。

ちょうどその「Windows on the World」があるフロアの端に美味しいステーキを出す店があって、そこにランチに行っている可能性はあるんですよね。11時オープンのお店なのでちょっと早めに行ってた可能性もゼロじゃないなと今更ながら思っていて。

小柳:オカルトの話じゃないですけど、何かそういうのを感じますね。

田中:そうなんです。ちなみにこの時モデルをやったGAPの広告写真の僕は今より随分と太っていてブサイクなんですけど、その僕の顔が2001年のクリスマスの時期に、アメリカ中のバス停の風除けやビルボードなどに飾られたんですよ!

小柳:他の世界キャンペーンモデルを調べたら「メアリー・J.ブライジ」に「ダフト・パンク」だったんですね!そこに田中さんって、すごくないですか。

田中:この写真、ホントは見せたくないんですよね…。

自分でもSNSとかに一切上げてなくて、黒歴史なんですけど。でもこれがアメリカ中のバス停に飾ってあったと思うと恐ろしくないですか?(笑)

小柳:いやいや、日本代表ですよ!

田中:もう1人、日本から「dj honda」さんが選ばれていて一緒に撮った写真もあったんですけど。アメリカ中に飾られたのは僕のこの写真なんですよね。僕は今日、この写真を皆さんにお見せしに来たので、この後質疑応答でもいいぐらいです!

小柳:いやいや、もうちょっと聞かせてください!笑

田中:あ、ダイエットについても語りましょうか?この時からここまで痩せるために何をしたかっていう…!

小柳:確かにめっちゃ痩せましたよね。でもオカルトとダイエットと、違う話ばかりして終わってしまいそうです(笑)

 

>>その3「命がけの日々」につづく

 

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