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SAPIENS TALK Vol.02 山川 咲 (前篇)

ブランディングカンパニー「クロマニヨン」が主催するトークライブ「SAPIENS TALK」。
時代を生き抜く「SAPIENS(知性ある者)」たちに、直接問いかけるリアルなトークライブ。コロナ禍でますます世界を狭めてしまいがちな今こそ、ダイレクトな言葉を通して多くの人に刺激ときっかけを発信したいと思っています。よろしくお願いします。

第2回目は「意志をもって生きる人を増やしたい」という理念を持って活動する、稀代の女性起業家 山川咲氏を迎え、その生い立ちから、クレイジーウェディング創業を経て、ついに「神山まるごと高専」という学校の設立を目指すまでの想いに迫りました。

ゲスト:山川咲(クリエイティブディレクター)
モデレーター:小柳俊郎(株式会社クロマニヨン 代表取締役/CEO)

◆山川咲のルーツ

小柳:山川さん、久しぶりですね。

山川さん:久しぶりです!また福岡に来れて嬉しい〜!

小柳:その笑顔も、全然変わらなくて安心しました。今日は、90分色々と聞かせてください。

山川:わかりました!

小柳:さてまずは「山川咲のルーツ」というテーマで前半お話を聞きたいのですが。

山川:子供の頃は「なんで私はこんな人生なんだろうな」とか、「仲間外れにされない為にはどうしたらいいんだろう」ってすごい研究する日々っていう感じでした。

小柳:心の底から楽しいと天真爛漫に遊んでいる女の子じゃなかったんですね。

山川:小学校5年ぐらいからはそんな感じではなかったと思います。中学校は暗黒時代というか。今私は40代目前にしてギャルになって、一番キャピキャピしているんですけど(笑)当時の私はビクビクしている感じでした。

小柳:そこからどうやって今のようになったのかとても気になるんですが、最初から起業家というわけでなく、悩んだ事もあったと思うので、そこもお尋ねしていけたらと思います。
まず学校を卒業してからは人材系のベンチャーの会社に進まれたんですよね。その会社を選んだ理由は何だったんですか?

山川:15歳で「好きな高校を自分で決めていいよ」って言われた時に、「自分が選んだからには自分の人生なんだ」という気持ちが芽生えました。高校生は初めて楽しい学校生活を送り、大学に行ってからは、自分は何かが足りないけど「自分は苦労をしてきたから成功したい」とか「何か人とは違うことを成し遂げたい」みたいな思いがありましたね。だから、就職活動も人一倍頑張っていくつか内定を頂いたんですけど「一番キツそうな道はどこかな?」という基準で結局ベンチャー企業を選びました。

小柳:最初に入社した会社でやり遂げたことはありますか?

山川:新卒採用の仕事で従業員が20人から100人になるまで採用をやっていたので、自分の中では「やったな」という気持ちになりましたね。

小柳:そんな気持ちで働いていたのに、24歳で結婚をして退社されたんですよね。「もうこの会社じゃない」って思われたんですか?

山川:いや、一生勤めるつもりだったんですよ。新卒で採用した子は「親御さんからお預かりした大切なご子息」という風に思っていたから、最後の一人が辞めるまではと社長みたいな責任を背負って、会社の前にマンションを買って骨を埋める気満々だったんですけど。笑
結婚して妊娠したんですけど、実は一度流産してしまったんです。その時に、精神的にも肉体的にも調子が悪くて時短勤務にしていたんですね。ベンチャー企業だったこともあるんですが、時短勤務を元に戻すとなった時に「キャリアがゼロになっちゃいますよ」って専務に言われて。「私は経営者だ」と思うぐらい責任を持って働いてきたのに、なんだそりゃ?と。その時ばかりは自分に「冷静になれ」と言い聞かせましたね。
たぶん、この会社に残ったとしても、また新卒の給与になっても自分は一生懸命やっちゃうだろうと思いました。でも、それではいつまでたっても、ただの従業員でしかないことが明確になった。妊娠して自分の中に命を身ごもって「親がどんな思いでこの命を育てたんだろう」とか、いろんなことに思いを馳せた時に一人一人の命、自分の命の重みが変わって、「一生ずっと社員で終われないな」という気持ちになったんです。
それが26歳ぐらいで「辞めるなら今しかないんだ」とぼんやり思っていたそのタイミングで3.11の地震(東日本大震災)が起こったんです。すごく揺れて外に避難し、出社できない日が何日も続いた時に「このまま会社に行くの辞めよう」となって、そこから出社しなかったですね。

小柳:最終的には、震災がきっかけになって辞めたんですね。

山川:そうですね。背中を押された形で辞めました。ただ「起業するから辞めるぞ」という感じでなく「流産しちゃったことに対する、なんで私産めなかったんだろう」っていう気持ちと、「なんで社長や社員にも約束したのに、自分が裏切って辞めるんだろう」という精神状態に陥ってしまって。

小柳:辞めることも「自分のせいで申し訳ない」という感じになったんですね。そして辞めた後にオーストラリアに行かれたんですよね。そのタイミングだと自分を責めまくったまま行かれたんでしょう?

山川:そうですね。当時は「死んじゃいそう」という気持ちで、このままだと本当にやばいと思ったので「海外に行こう」と思い立ちました。すぐに一週間以内ぐらいのフライトを取って、小さいバックパックに荷造りをして初めての世界一人旅に出ましたね。

小柳:オーストラリアでは何があったんですか。

山川:行く時はフライトで飛び立つときすら「こんな中途半端な気持ちで海外に逃げていいんだろうか」と泣いていたんですよ。でもオーストラリアって本当に皆さんポジティブで。こんなこと言ったら変ですけど、私より絶対適当に生きているのに、皆さん私よりも幸せそうで。私は生真面目に「足りない足りない」と思い、「何をしたら社会に認められるんだろう」ってことの埋め合わせの為に27年間死ぬほど働いて努力して、微塵も手抜きしてないぐらいやり込んできたんですよ。
やり込んできた結果がこんなに不幸で「自分の全ては何だったんだろう」って思っている私と、適当にやっていてハッピーな彼らを見たときに「私はもっといろんなことができるし、もっと幸せになれるな」って。「これだけやってきたんだもん」っていう開き直りみたいなスイッチがポンと入る瞬間があったんです。

 

◆ 株式会社CRAZY 創業

小柳:そんなオーストラリアの旅から帰ってきて、28歳の年で起業をされたんですよね。

山川:そうですね。オーストラリアで過ごした3週間で「ダメだったらそれでいい、死にやしないから」ってぐらいのモードまで復活しましたね。

小柳:そして「株式会社CRAZY」という会社を起業されたんですけど、どうして結婚式の事業をやろうと思ったんですか?

山川:今まで生きてきて「なんでこの人生だったんだろう」っていう疑問が自分に対してずっとあったんですよ。今の旦那とは出会ってすぐ「この人と結婚したいな」と思って結婚したんですけど、その時に式場を貸し切って1,000万円のお金を出し、ゲストを300人呼んで6時間かけて行う結婚式をオーダーメイドで作ったんです。全ての過去があって今の自分になり、それを相手が好きだと言ってくれて。彼もとんでもない過去とか、恥ずかしいことや失敗を経て、今の彼になっていて、それを好きだと思って。「お互いがいるから、未来があると思えてるってすごいことだな。結婚式って人生の全ての肯定なんだな、初めてこの人生でよかったな」って心の底から思えたんです。(前の会社を)辞めた時に色々考えたんですけど、結局「いつかやりたい」と思っていた結婚式の事業に戻ってきましたね。

小柳:「CRAZY(クレイジー)」っていう会社の名前の由来は何だったんですか?

山川:私からすると結婚式業界って「狂っているな」って思ったんですよ。自分のことを表現できるせっかくの場なのにみんな同じ結婚式をしていて。数百万円払っているのに「あれもだめです。これもだめです」って言われて。自分がクレイジー側に見えるけど世の中の構図から考えたら「今の世界の方がよっぽどクレイジーだよ」っていうことを逆手に取り、こちらがクレイジーと名乗って「超本質的でユニークな事業をやっていこう」という思いからCRAZYという会社を始めました。

小柳:このCRAZYが大成功するわけですよね。この頃のことを「青春」って言われてましたよね。

山川:でもうち「夜逃げ屋」って言われていたんです(笑)。オーダーメイドの結婚式って、作るのすごく大変なんですよ。何にもない場所に高砂を作り、木々を入れて、机の飾りつけもペンキで塗ったりして。最初は1日1件だったんですけど1日5件やるとなると、2トントラックが何台もうちの会社に着いて。朝6時ぐらいには現場に行って夜帰ってくる生活なので「この人たち夜逃げしてるの?」って近所のおばちゃん達から煙たがられたりしていました(笑)。だから体力的にはすごく大変なんですよ。帰ってきてオフィスに一度倒れていて「また3時間後に次の結婚式があるから頑張ろう」という感じで。ちょうどFacebookが流行り始めたタイミングで事業を始めたので、アップした結婚式の写真が後押しして一晩で5,000フォロワーになったり、取材もひっきりなしにあって時代に背中を押されているような感覚でした。
そんな世界の中で「結婚式から人の人生が変わり、世界が変わる」ということを、まず私たち20代の女子達が信じて毎日を過ごせていた。だから単純に「楽しかったね」と振り返る感じではないんですけど、「あの時は魔法にかかってたような日々だったよね」っていう話をしますね。

小柳:一緒に働いていた人も同じような年齢になっていると思うんですけど、会ってそんな話をされる事もあるんですか。

山川:「CRAZY」が10周年を迎えたタイミングで集まった時は本当に楽しかったですね。みんなCRAZYの事が大好きだし、クレイジーな人しかいないし(笑)。みんながみんなの事を大好きで、嫌いな人は一人もいなかったです。

小柳:「嫌いな人が一人もいない」という組織、素敵ですね。みんなそんな組織を作りたいと憧れると思うんですけど、組織作りで大切にしていた事はありますか?

山川:採用ですかね。「私たちはこれしか目指してないよ」っていうのを掲げて、それを作れる人間であり、力がある人間を採用して、創業期は特にチームでフィードバックをし合っていました。それがあったから4年間で10億円ぐらいまで売り上げを伸ばせたんですけど、それ以上伸びなかったのは人間関係やカルチャーを大事にし過ぎた部分もあるなって辞めてから思いますね。

小柳:難しいですよね。でも「こんなことをやるんだ」とひたすら言い続けると、それに賛同して人が寄ってくるっていうのはブランド力ですよね。

山川:「みんな心の底ではやりたいと思っていることだから」というのもあると思います。夢を掲げる人は少ないかもしれないけど、夢に乗りたいって思って乗ってくる人たちは結構な数いると思っているので

 

 

◆人生で一番辛かった時期を経て「CRAZY」を卒業

小柳:そして「業界の風雲児」と言われながら有名になっていかれた山川さんですが、テレビ番組でも取材されていましたよね。憧れる人も多い「情熱大陸」に出演して、何か変わりましたか?

山川:人の目の色が変わりました。今までは志に共感してくれた人が「頑張れ」って言ってくれていたんですけど「世の中で認められた人」というお墨付きがついちゃって。当時はドベンチャーでまだまだお客様に土下座するぐらいの出来事もあったんですけど、テレビで観ると「素晴らしい会社」みたいに見えちゃうので、問い合わせて来てくださる方の客層も変わって。本当に申し訳ないですけど、それまではいろいろな企画に挑戦して一回クレームを受けたとしても、プロとしてそこから(結婚式を)一緒に作りあげるというのがスタンダードだったんです。それでも一緒にやりたいと言ってくださるお客さんは仲間のような存在だったんですけど、テレビ出演後は期待値が違ったので、本当のクレームを頂くこともありましたね。
まだ地べたを這いつくばっている感じだったので「私はどこの世界を生きているんだろう?」って帰宅中のタクシーの中で泣いちゃうような状況が放送直後から二ヶ月続いて。半年間ぐらい仕事が出来なくなってしまったので、無期休養に入ったんです。

小柳:精神的に色々重なってという事ですか。

山川:起き上がれなくなっちゃったんですよね。人生で起き上がれないレベルになったのはその時だけなんですけど「ダメかもなぁ」「ちょっとゆっくりしよう」というタイミングで娘がお腹にきてくれて、娘と共に再生したって感じなんですけど本当にその時はギリギリでした。

小柳:そしてまた旅に出ちゃうんですね(笑)。しかも、今度はヨーロッパへ?

山川:はい。親友から半ば強制的に誘われて、起き上がれない状態のままヨーロッパからニューヨークまで二週間ぐらいの船旅に出たんです。でもあの旅がなかったら再起できなかったかもなっていうぐらい貴重な体験でしたね。

人生で一番辛かったのはあの時期なんじゃないかなと思うぐらい、当時は本当に悶えていましたから。

小柳:そして「CRAZY」を辞めてしまう。なかなかキツい決断だったのではと思いますが。

山川:普通自分が起業したら、その会社を辞めないじゃないですか。でもその「CRAZY」すら辞める選択肢があるんじゃないかと考えて、こんどはスリランカに行きました。そこで一人で考えて「CRAZYを辞める」と決断したんです。

小柳:辞めるってなかなか言えないですよね。どうして辞めるっていう選択肢が生まれたんですか。

山川:「何も考えなかったら5年10年余裕でいちゃうだろうな」って気づいた時に、「辞めた方がいい可能性があるな」と思って。人間が無意識のうちにだらだら時間を過ごしちゃう事は、一番人生の中でやってはいけないと注意していることなんですよ。実際は「なんで私が辞めなきゃいけないんだろう」と思うぐらい「CRAZY」も好きだし、仲間も好きだし、やる意味しかなかったんですけど。一言で言うと「自分がもう頭打ちだから」というのが理由でしたね。

小柳:「だらだらと意味のない時間を過ごすのが一番だめだと思う」という言葉はすごいです・・。でも「CRAZY」を辞めてまた旅に行っちゃうんですよね、次は奄美大島に(笑)。

山川:最後にみんなに「CRAZY辞めます」って言う卒業式を企画している時に、コロナがきちゃって。ロックダウンされたら困るので一足お先にどこかに行こうとなり、後輩がいた奄美大島に娘を連れて行きました。

小柳:旅って、山川さんにとってはリセットの手段の一つなんですか。

山川:自分の人生を生きる有効な手段というよりか、これがないと自分を保つのが、難しいんじゃないかなと思っています。日常から離れない限りやらなきゃいけない事の中で思考・行動をしているのが人間なので。その思考と行動のパターンから脱却して「今の自分って何が一番嫌なんだろう」とちゃんと考えるというのは、旅以外ないんじゃないかなって。

小柳:自分探しの旅に行って、余計迷って帰って来ちゃう人もいるじゃないですか。それは考えないのがいけないんですかね。

山川:いや、皆さん考えていると思うんですよ。でも考えても答えは出ないので「何もない自分になって自分のことを感じる」ということが一番大事だと思います。奄美大島に行って私はホテル&レジデンスブランド「SANU」というところに参画を決めるんですけど、そこでいろんな人生が繋がったんです。
「自分は幼い時にこういう大自然の中に住んでたなぁ」とか「自分は自然から離れて都会で一旗上げたかった、自然を捨てて都会で生きていくって思って自分のアイデンティティを探しに来たけど、やっぱり私のアイデンティティはこっちにあったんだな」というのを星を見ながら考えたりとか。

小柳:「思考じゃなくて感じる方を」ということですね。旅先は別に奄美大島じゃなくても、海がある場所がいいと思ったんですか。

山川:本当は海外がいいですね。異世界に放り出されると自分というものが分かるので、言葉が通じない世界に行くっていうのが大事なのかなって。

 

山川咲の「新たな挑戦」とは?

>>>後半に続く

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