SAPIENS TALK Vol.07 家本賢太郎(その3/6)「起業家 家本賢太郎」
その2から続く
起業家 家本賢太郎は何者か?
小柳:では、今度は家本さんについてお聞きしていきたいと思います。
Googleで「家本 賢太郎」って検索すると、一番上に出てくるのが「neuet株式会社」の情報なんですけど「クララオンライン」に「TUBC」とか、いっぱい出てくるわけですよ。で「ちゃりカンパニー」というのがさっき話に出てきた中古スポーツ自転車の買取販売専門チェーンの会社になられるんですよね。
家本:はい。「バイチャリ」というお店なんですけど、全国に24店舗、シェアは70%ぐらいで圧倒的ですね。
小柳:この「クララオンライン」という会社ですが、15歳で起業されたんですよね?1999年にアメリカの「ニューズウィーク誌」で「21世紀のリーダー100人」に選ばれたり、2000年に新潮社「Foresight(フォーサイト)」で「次の10年を動かす注目の80人」に選ばれたり。2012年に世界経済フォーラムの「ヤング・グローバル・リーダーズ」に選ばれたり。とんでもないですよね(笑)。
家本:大体こうやって言われる人は、後で駄目になるんですよね(笑)。過去の栄光みたいなところもあります。
小柳:そんなことないですよ!その部分も含めてお聞きしたいですが、まずどんな少年でした?
家本:野球選手になりたかったですね。勉強とか何も関心がなくて、将来自分の憧れているプロ野球の球団でドラフトで選ばれることから逆算をして、野球の強い高校に行きたい、そのためにはこういう中学校に行きたい、そのためには小学校のうちに野球をやって、そういう中学校に入れなきゃいけないっていう、小学校高学年の頃は、ほとんどそういう逆算だけを考えていました。
小柳:「イチロー」さんみたいですね!
家本:そういう訳じゃないんですけど、本当に逆算だけしていました。僕は子供の頃ポーランドのワルシャワという国にしばらくいた時期があって。ちょうど社会主義の最後の時期だったんですけど、やっぱり野球がやりたいし、それは日本の環境だし、でも勉強がある程度出来ないと逆に野球出来るチャンスも生まれないんじゃないかとなって、最後の方は中学受験を頑張っていたのが小学校時代でした。
小柳:ご両親からは「勉強しなさい」みたいな感じで言われていたんですか。お祖父様が経済学者でいらっしゃるんですよね?
家本:勉強について一言も言われたことがないですね。祖父はアメリカ経済で、父は東ヨーロッパ、ロシア経済が専門でした。
小柳:絶対に「勉強しろ」って言いそうですよね。
家本:でも父や祖父の姿を見ていたら思いましたね。逆に言うと好きなことしかしていないなぁって感じていたので。学校の勉強についてとやかく言われたこともないし、テストの点数を見せたこともないし。プリントをぐしゃぐしゃっとして「野球してくる」みたいな、そんな感じでした。
小柳:この間プレゼンを聞いてびっくりしたんですが、中学2年生のときに「一生車椅子」宣言をされたんですよね。実際車椅子に乗っていらっしゃったんですか。
家本:はい。乗っていました。車椅子の乗り方上手いですよ、当たり前ですけど(笑)。小学校6年生の3学期が始まる前に突然熱が出て、頭も痛くて体もだるくて。最初は冬だったのでインフルエンザかな?と思ったんですけど一週間しても良くならないし、血液のデータも良くないからすぐ入院になって。なので小学校6年生の最後は学校に行ってないし、中学校も3年間で結局50日しか登校していないですね。私立の学校に入って中高一貫だったんですけど、ありがたいことに義務教育なのでちゃんと卒業証書を出して頂けたので、中学校は卒業しました。
小柳:病気が分かったのはいつだったんですか。
家本:中学校一年生の時は原発が脳腫瘍だったんですけど、脳腫瘍が見つからないまま他の場所の腫瘍だけ見つかって。これが面白いんですけど、僕が一番最初に小学6年生の時に撮ったMRIにはすでに脳腫瘍が写っているんですけど、たまたまそのスライスが悪かったんですね。今のMRIは3Dも使えたりしてすごいんですけど、昔のMRIはスライスが広かったのと、放射線科の先生方がそこじゃないと思って他のところを見ていたのもあって、見逃されちゃったんですよ。ここから上には何もないと思って、下だけいろいろ原因を探っていって。いろんなところに腫瘍が転移するから毎回手術をするんですよね。何回も何回も手術を繰り返して、最後の手術が中学2年生の時で。「やっぱり脳腫瘍がここにあるっていうのが最後に見つかって。その手術を受けたら足が動かなくなっちゃって、車椅子に乗ることになったんです。
小柳:その時に「一生車椅子だ」って言われたんですか。
家本:そうなんです。僕はそもそも車椅子に乗るつもりは全くなくて。野球がやりたかったし、野球をやるために闘病生活をしていたつもりだったんです。中学校2年生のこの手術が最後の手術だったので、親も喜んで。むしろ脳腫瘍が見つかってハッピーだったんですよ。「これでもう闘病生活から離れられる」って、親が赤飯まで炊いて。で、僕は仲良くなった病院のお医者さんたちにデジカメを渡して「僕の最後の手術を撮って」と言って撮ってもらったりして。その最中にダメになっちゃったんです。
小柳:信じられないですよね。受け入れられたんですか?
家本:今はあれがあったから良かったと思っていますけど。リアルな話をすると、最初は首から下の感覚が全くなかったので排泄もできないし、お風呂も入れないし、体の向きを変えるのも全部人に手伝ってもらわないと床擦れが出来ちゃうっていう感じで。中学校2年生ぐらいの男の子にとって、親でも嫌じゃないですか。排泄は完全にチューブだし、お風呂は感覚がないから熱いかどうか分からないので火傷したんですよね。だから湯船につけてもらってラーメンと同じで3分したら上げてもらってっていう感じでした。天井しか基本的に見えるものもないから、天井のシミを数えるとか「天井のシミってなんだっけなぁ」とかいうことを考えるみたいな。そんな時期がしばらくありましたね。
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