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SAPIENS TALK Vol.07 家本賢太郎(その4/6)「15歳で”クララオンライン”を起業」

その3から続く

15歳で「クララオンライン」を起業

 

小柳:それで車椅子生活をしていて、15歳でいきなりクララオンラインを企業されたんですよね。

家本:中学校3年生になる手前の頃に車椅子生活になり、身体障がい者の手帳をいただきました。身体障がい者の手帳も、自分ではよく分かっていなかったんですけど、「障害が固定したからもらえるものだ」っていうことがだんだん分かっていって。「両下肢麻痺」って書いてあって、もう回復の見込みはないんだと思いました。そんな中で僕の唯一の外とのコミュニケーションのツールが、パソコンとインターネットだったんです。それが起業のきっかけですね。

小柳:インターネットって当時どれぐらい普及していたんですか?

家本:当時、街中にグレーの公衆電話が出てきたんですよ。64kbps出せるモジュラジャックを持っていってパソコンと繋いだらインターネットに繋げられるっていう公衆電話が、病院の中にあったんです。もう嬉しくて車椅子をこいでいって夜な夜な通っていましたね。お家の人たちと電話したい患者さんに後ろから「どけ」とか言われて「俺まだインターネットやりたいんだけどな」みたいな。それがスタートですね。

小柳:そこから始めてずっとやり続けている事業が「クララオンライン」なんですね。

家本:25年以上やってますけど今で言うクラウド、当時で言うと和製英語でレンタルサーバーとかサーバーホスティングと呼ばれた、当時は企業のウェブサイトやサーバーをお預かりする仕事っていうのが最初の事業ですね。

小柳:野球選手になることしか考えていなかった少年が、どうやって思いついたんですか。

家本:当時インターネットにあった仕事はプログラミングするか、サーバーの仕事をするか、ウェブのデザインをするかの3つしかなくて。僕たちの企業の少し前ぐらいの方たちって、ウェブを作る、プログラミングする、この2つぐらいですけどその仕事って周りに出始めていて。しかも一発の仕事で納品したら終わっちゃって来月お金が入ってこない、今でいうリカーリングのビジネスなんですが、継続して毎月いただけるんだったら、入ってくるお金と出ていくお金の差が残るっていうことだけは分かるので。これだったら僕でも出来そうだし、インターネットを支える役割も必要だよなと。本当にそんなことしか考えていなかったです。

小柳:それが受け入れられて、だんだんお客さんもついて。それで「15歳の少年企業家 家本賢太郎」としてもてはやされる時期に突入するわけですね!実際、当時はどうでした?

家本:過去のことはなかったことにしたいんですけどね(笑)本屋さんに行ったら必ず自分が出てる雑誌があって、僕は大学に入る時ぐらいまでずっと出身の名古屋にいたんですけど、常にテレビカメラが後ろに付いていて。まだ車椅子だった時で、家に車がなかったし、親のサポートも一切なかったので、僕は外に出るのが自分の車椅子かタクシーしかなかったんですけど。タクシーの運転手さんは当時無線だったからどこに行くにしても「家本」って名前で呼ばれると、僕がどこにいるかみんないつも分かる感じで。当時名古屋で大人の人に飲み屋さんに連れて行ってもらうと福岡で言う中洲みたいな場所でタクシーを呼んだのをたまたま親が無線で聞いていて「どこに行ってるんだ」って言われたりして。「仕事で連れて行ってもらったんだからしょうがないんだ」と怒ったんですが。それぐらいどこに行っても自分のことが見られていました。でもその時は天狗になっていて、それが快感と思っていましたね。無かったことにしたいですけど(笑)。

小柳:すごいですね!その後、足の方はどうやって回復されたんですか?

家本:実は回復する見込みはもともとなかったので、リハビリも途中ですぐに辞めちゃったんです。先に結論だけ申し上げておくと何かの薬を飲んだとか、何か高いものを買ったとかでは全くなくて、ただお医者さんに一言「Unbelievable!(信じられない)」って言われた感じなんですが(笑)。医学的に言うと神経が切れている訳ではなくて、脱髄と言って脳幹延髄のところが死んだ状態になっていたんです。物理的には切れてなかったんですが、今の日本や世界の医学の中で言うと、中枢の神経は元に戻るはずがないと言われていて。ただ、その機能が一部残っていたのか足の先が動いているのを親が見つけて、そこからもう一度リハビリを再開しました。金属で関節を固めるような装具を付けたり、プールで練習しながらだんだん立てるようになってきて…という感じでしたね。

小柳:その間もずっと事業をされていたんですか。

家本:もちろん午前中リハビリをして、午後は仕事をしていました。

小柳:多分「こいつは動かした方がいいな」って神様が思ったんでしょうね。

家本:そうかどうかは分からないですけど、41歳の僕が今思っているのは「役目がある」ということですね。子供の頃は歩けていて車椅子のことも知らなかったんですけど、その後車椅子になって何が分かったかと言うと、例えばエレベーターのこのサイズだと車椅子で回転ができないとか、小さな町の中の段差でも何センチだったら車椅子の前輪の8インチのキャスターで越えれるかとか、歩道って水が流れやすいように少しだけ斜めになってますけど、「こんなに斜度つけなくていいじゃん」っていう歩道だと前に進まないわけですよ。こういう街の中のことがよく見えるようになったんです。ふかふかの絨毯とか車椅子で走りにくいですし。そういう時があり、今また歩けるようになったから、こういう3つ目の人生を頂けるっていうことで「役目はあるな」と言う風に自分で自覚していますね。その時々ではしんどかったんですけど。

小柳:それはもう家本さんしか言えないですよね。その経験から「モビリティ×社会」への取り組みをされているってすごくないですか?

家本:さっき申し上げたように、小さなこの段差や小さな角度はそれまで自分では見えていなかったんですけど、車椅子に乗ると見えるものも違うわけなんですよね。これは本当に自分にとっての経験だったと思います。

小柳:すごい話ですね。今起業家・経営者としてやってこられて、たくさん場数を踏まれていると思うんですけど、何か記憶に残っていることってありますか?

家本:僕一回だけ、会社を潰しかけたんです。お給料や当時のクラウドやサーバーホスティングと呼ばれるもののデータセンター代が払えなくなりそうな状況が、十代の時、しかもちょうど歩けるようになり始めた時ぐらいにあったんです。体は良い状況だったんだけど、実は火の車みたいな。人の下で働かせてもらうことが無いまま起業したので、どなたかに雇っていただくっていうのは全く経験がなかったんですが、その時に一回だけ人生で初めて履歴書を書きました。当時自分のオフィスの目の前にあったコンビニエンスストアで朝6時から9時までアルバイトをしたんです。今でもクララオンラインの本体は9時半始業なんですが、それは僕が9時までバイトしてたからなんですよね。

小柳:そんな時期があったんですね。

家本:でも、これには嬉しい話があって。アルバイトをしていたのは実は「ミニストップ」さんだったんですが、そこから20年以上経って、名古屋で「チャリチャリ」をやっている中で「ミニストップ」さんにうちの担当が行って。「うちの社長の家本は昔ミニストップさんでアルバイトさせてもらっていたんですよ」って話をして。そしたら担当の方が「どこのお店かな?」「ここのオーナーさんじゃないか」みたいな話になったんですよ。で、僕もアルバイトを辞めてから、オーナーさんや店長さんと連絡を取ったこともなかったので「外でこのネタを喋らせてもらっているけど、直接話せてないなぁ」とか考えていたんです。でもアルバイトしていたお店は潰れちゃったので「僕が潰しちゃったかな」とか色々思っていたら「オーナーさんに引き合わせてくれる」って話になって。去年の年末に20何年ぶりにお会いしたんですが、その方のお店は中部地域のミニストップのフランチャイズで一番大きくなっていて、もう感動の再会でしたね。僕がこの質問を聞いてパッと思い出したのはこれが一番で、それぐらい本当に助けて頂いたんです。

小柳:経営が苦しくならなかったらアルバイトなんてしないじゃないですか。それによって繋がった出会いだから、人生何があるか分からないものですね。

家本:分からないですね。しかも僕がそれなりに雑誌や新聞、テレビに出ていたのをその店長さん、オーナーさんは知っていて。僕がすごく悲壮な顔をして「アルバイトさせてください」って言いに行って「何でなの」みたいな話から「すみません、正直言うと実は辛いんです」って話したんですがそれで雇ってくれた方だったから余計に嬉しくて。

小柳:20何年後に会えると思わないですもんね!いい話をありがとうございます。

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